日の出町平井加美町


2004年 祭 礼
<平井加美町の山車>








照明は
今では珍しい
「アセチレンガス」
美しいです!!
今年はぜひ実物を見に行きたいと思います。
「重松流」の演奏も聞きたい。



ー平井村への囃子の伝授についてー
(溝口重郎氏)

重松が行商の一夜を借りる宿として
平井村志茂町濱名彦右衛門家(屋号は瀬戸)の
土蔵を借用していたのことである。
濱名家の言い伝えでは
「重松師匠は半年近くも寝泊をしていた」
とも語り伝えられているとのことである。
たとえ半年でなくても相当長期間滞在して
重松囃子を徹底的に教え込んだ地区、
あるいは重松自身が滞在しても
居心地が良かった村、または場所と想定される。
囃子を直接伝授した場所は
濱名家の隠居屋(蚕室のも使用したのことである)で
あったのことである。
しかしそれ以外には現在のところ詳しい状況は判明していない。
平井の志茂町の重松囃子が仕上がったのは
明治18(1885)年と言われているので
年代を追ってながめてみると
明治7年から同18年までの12年間と考えられる。
この間に平井志茂町(一部加美町)の人達が
雨天の日は昼間、晴れた日には行燈に灯をともしながら
一生懸命修練に励んだということが推定される。
これとは別に須田昭治家文書「鎮守幟諸掛書抜帳」(慶応3年9月)には
慶応3年9月に武州北野天満宮別当源正景に依頼し
幟旗を新調記録があり
その中に「はやし連」または「林連」等計3ヵ所名前が出てきて
すでに春日神社の祭礼当日には囃子連があり
お祝いをかねて上演されたことが推定される。
しかし重松流であったかどうかについては
現時点では判明していないのが残念なことである。
当時所沢から4里(16km)四方を
重松は自分の商売を出来る地域と考えていたようで
それは商売上日帰りが出来る範囲と決めていたとのことで
平井村はそのぎりぎりの地区であったという語り伝えもある。

それでは当時実際に重松から教えを受けた人達のことについて触れて見ると
志茂町では
「笛の繁さん」といわれた海塩繁蔵や
太鼓では繁蔵の弟で「にささん」といわれた海塩仁三郎
鉦は「鉦のうっさん」といわれた小山丑五郎
踊りの部門では
獅子は「下の兼さん」といわれた海塩兼太郎
おかめは田中染次郎(元、森田)が担当している。
一方加美町の初期については
太鼓は奥津猪之助(屋号松屋)や「地の名人」であった岡野彦蔵の二人は
直接古谷重松から直接手ほどきを受けたと語り伝えられている。
特に岡野彦蔵の地と「絡みの名人」といわれ
通称が「ツルちゃん」の愛称で親しまれた山崎倉吉は
聴く人が驚くほどの絶妙なバチさばきがあり
天下一品であったとのことである。
他には太鼓の小倉松五郎や太鼓や鉦の河野長作などであった。





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