所澤神明社秋季例大祭


2004年9月15日
16:00〜



竹間沢里神楽




所澤神明社




秋の夕暮
樽酒を飲みながら




神楽殿と重松流




喜多町?
保存会の方々がやっていました。
柳沢氏が大カンを叩いています。




一部は
「住吉三神・式三番」
伊邪那岐命と伊邪那美命のお話しでした。

二部は
「天孫降臨」
伊勢の国の国神、猿田彦命が
天孫・邇邇藝命(ニニギノミコト)が高天原(タカマガハラ)から
葦原の中国にお下りになる時に
途中の要路、天津八街(アマツヤチマタ)に立って
威風堂々、上は高天原を照らし、下は葦原の中国を照らしている
一人の神がおりました。
天孫は家来を先駆として遣わすが
戦いに敗れて逃げ帰ってくる始末でした。
そこで、天照大神(アマテラスオオミカミ)高木神(タカギノカミ)のご命令で
天宇受売神(アメノウズメノカミ)に
貴方はか弱い夫人にも拘らず
誰と相対しても、怖まず臆することがない
非常にしっかりした神樣なので、特に遣わすので
天の八街に行き、あの神に
『天津神の御子がお降りになる道筋にどうしているのか』
と詰問する様に仰せ付けられた。
そして天上受売神は天の八街に行き
指示されたとおり尋ねますと
その神は
『私は国津神で、名は猿太彦神(サルタヒコノカミ)と申します。
こうしておりますのは天津神の御子が天降りなされると承りましたので
ご案内申し上げようと思い
お出迎え申し上げているのです。』
と申されたので
お互いに誤解していた事が分かり
天孫の行列は猿田彦神の先導で目出度く出発いたしました。










小さい頃から見ていたと言う、鈴木氏と。







三部は
「八雲神詠」
という大蛇退治の話しでした。




竹間沢里神楽
神楽師前田家の由来

竹間沢里神楽の奉納は代々前田家が行なっています。
前田家がいつ頃から神楽を始めたかは分かりませんが
江戸時代の終わり頃には神楽師として資料に表れます。
安政4年の「強飯会入講名前帳」に
「御神楽師前田筑前」と見え
川越城中の天神社での神楽奉納が許され
前田家が村の神楽師と言うより
川越藩の御神楽師としての地位にあったことが分かります。
また前田家は土御門家から代々許状を得て
(文政十年から明治二年まで十三通)
陰陽師として祈祷や占い等を執行していました。
「天社御祈祷之符守礼」という記録には
「川越之城主松平大和守樣家中前田筑前」
また、「関東取締陰陽家神主前田筑前」という肩書きとともに署名され
前田家が神楽師・陰陽師として川越藩の命を奉じていたことが窺えます。
以後、現在に至るまで代々神楽をはじめとし
車人形を継承する家として
村内はもとより近郷近在に
その名を知られています。



竹間沢車人形

竹間沢車人形は、江戸時代末の安政年間に
三芳町竹間沢の神楽師前田家に伝えられた人形芝居です。
明治時代を中心に「吉田三芳座」として
入間郡や埼玉県内
遠くは群馬県、千葉県
神奈川県などで盛んに興行されました。




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